白木蓮が咲き始めると、もう春だ、って思う。今年は例年に比して暖冬傾向で、確かに心が冷え切るような状態にはならなかった。おかげでクジラ空挺もそれなりの気圧を維持しながら完走飛行できたのかなと振り返る。
寒いとね、どうしても寂しいテイストになりがちだから、わたくし。
この感想戦はなんていうか、本企画主催者のaotoさんに向けたお礼を込めて書くもので、文中にあったいくつかのことに対するレスポンスも踏まえたい。
果てもさても、お題Bはクジラ、温泉、砂漠がキーワードだったので、真っ先に思いついたアイデア(要するにファンタジー)は棄却するつもりでいた。社会人にもなるとガッツリ創作に飛び込むことも難しいので、限られた時間でどうにか意味のあるもの、読み手に伝わるものを書きたいと決めていた。
その中で、最初に考えたのが実は冒頭の部分だった。
「あなたに捧げたい物語があります」
この一文は書き手にとっての「宣言」。捧げると書いたからには揺るがない思いを込めて作らないとならない、と自分に発破をかける意味を込めた。
それからこの一文を使うことで、「あなたに語りかける物語」であることも示唆している。ゆえに言葉遣いがaotoさんが称するように太宰的であり、ライ麦畑的であったりするのは、こういう最初の一文が与える余韻を大切に熟成させていきたいという心構えがあったからで。
もう一つは単純に、よく海外文学なんかで最初の一文がだいたいこういったラブレターさながらの書き出しから始まっているのがロマンチックだし、一度やってみたかったと思っていたから物語の切り出しとして採用した感じ。
自分はわりと最初の一文に関しては熟考するタイプというか、ひねろうとする人間で、それがなんでかっていうと、最初の一文は要するにまずそれが一人称であるか三人称であるか、はたまた二人称になるかをある程度決定づける因子になるし、その語尾や言葉の使い方でストーリーの大味も決められるメリットがあると信じているから。もう一つのメリットは、物語の中で一番自由なふるまいができるのが冒頭だから。正直物書きをする中でもっとも楽しい部分だとさえ思っている。
そういう理由を踏まえての、あの書き出しだった。結果的にそれは成功だったし、「あなた」という一言が主人公であるぼくにとっての「あなた」でありながら、書き手である自分にとっての「あなた」はつまり読み手を意識したことで、それはとてもいい作用を与えていると思っている。
言うなれば、お題Bの物語は一人称であるぼくの内面の世界を描きながら、俯瞰的には二人称でもあったということはちゃんと押さえておきたい。自分にとってはそれもまた「伝える」ことの手段の一種だった。
結局、読み手への伝え方って複数あると思っていて、物語を介してメッセージを伝える間接的手法と、物語を直接与える手法があるように個人的には思う。一般的なのは、もちろん間接的にメッセージを伝えることだし、物語はまがうことなき虚構である以上は物理的に直接メッセージを伝えることは至難だと思う。ただ、これを疑似的に解決できるのが二人称のいい所だと思っていて、虚構を描きながら読み手を物語に巻き込むというか、感情を入れこませるというか、自分にとっては物語を弾丸のように相手にぶち込みたいという願望があるから、結果的に「あなた」という言葉を用いた一人称兼二人称の作品にすることを意識して書いた。
(そういえば書き上げてから感じたことだけど、二人称にするとどうしても相手のことを念頭に置いて書くから、ネガティブ過ぎない世界観を造り上げられるというメリットはあったように思う。つまるところ、二人称にすることであなた自身が物語のバランスを調律する立場になっているというのは、たいへんエモさがあるように思うよね。)
今回の物語を作る背景は上記のようなところで、実際執筆するにあたっては具体的な文献なり小説は一切なかった。ただ、いくつかの作品は思い出しながら臨んでいた。
一番意識したのは重松清著『疾走』だった。とくに後半戦クジラトリップストーリーで最後の舞台である山形県蔵王温泉に行く直前、メタファー表現をちょろちょろと仕込んでいたけれど、あの部分は完全に疾走のオマージュというか、あの雰囲気をまといたくて描いたものだった。自分は小説は手元に置かない人間だから、一回読んだらまた買いに行かなくちゃいけなくて、本屋さんに疾走を探しに行ったけど在庫切れだった。でも読み返して書くとそれはそれで自分の良さがかすれてしまう気がしたから、実際は何もない方が正解だろうという持論はある。
そう、だから自分はライ麦畑も大好きだし、村上春樹の物語も好きだけど手元には一冊もない。けど覚えているし、時間とともに自分なりの解釈で立ち上がるライ麦畑がぼんやりと完熟しているし、それを思い出せば自然とそういう風な雰囲気はできあがるというか、そんな感じ。ライ麦畑については自分は野崎孝訳のほうで読んでしまったからそれ以外ではもう読めないなあという気がする。
aotoの評文を読みながら、まあよく覚えていること。自分でも忘れているようなことをよく覚えていらっしゃる。誰かさんというのは七芽さんだったかな。だったはず。あのときは大学一年生で、確かに当時勧められて海辺のカフカは読んだし、その流れでライ麦畑を読み、あのころはQくんもいたから彼の勧めでノルウェイの森とかさ、三島由紀夫とかさ、ドストエフスキーとかさ読む機会を与えていただいたかなと思う。太宰読みになったのは中性ボールペンさんのおかげで、あのころのnove界のTwitterはメンバーがおのおの濃かったなと思いだす。懐古的ではあるけれど、あの当時がもっとも黄金期だったように今でも思う。だからこそ、彼ら・彼女らからの影響というものは、あまりに多大過ぎて、なおのこと現在までずるずると曳航しているわけだから、改めてすごい人たちと一緒にいたんだなと感心するばかり。確かにあのときに得たものは掛け値なしに財産で、良くも悪くもいろいろ勉強させていただきました。
本文について。
最初に決めたのはストーリーよりも冒頭で、次に決めたのがタイトルだった。ただ今回に関しては特殊なケース(ふだんは書き上げてから決める)。
お題Bは前半・後半に分かれていて、前半のタイトルは
「ふりかえる無情の砂漠に春吠える」
もともと五・七・五にするつもりで、その中にお題を匂わせたいという算段があった。クジラは英語でwhaleだから「吠える」は使えそうだし、温泉はoff springだから「春」として使うことは問題なさそうだな、とか。砂漠についてはdesertだから「デザート」にできなくもなかったけど、そうなってしまうと「吠える・春・デザート」という別のお題に挿げ替わるし、それじゃお題Bの意味が失われるから、それは違うよねと。
そんなわけで当初は、~~~砂漠、春吠える、という自分のリズムにあてはまる音を探していて、実のところ執筆で一番苦心したのがこのタイトルだった。苦心したからこそ、本文の執筆がスムーズに行くことは確信していたので、このあらゆる要素を決めるタイトルはしっかり考えようと思っていた。だって、そのときは何もストーリーが決まってなかったから。
今回が特殊なケースと書いたのは、とどのつまりタイトルを決めてそれにこじつける物語にする予定だったから。普通は絶対にしない。その作品が量産的なものであったりシリーズであるならともかく、ドラえもんという名前をつけてから猫型ロボットを作ったりはしないだろうということ。結局自分がしたのはそういうことだったんだけど、その代わりしっかり考えましたという言い訳。
結果、「ふりかえる無情の砂漠に春吠える」という文言は前半の末尾でそのまま引用するほうが面白いだろうと決めて、あとはその間隙をじっくり満たすだけという作業になった。自分にとっては、頭とお尻が決まってしまえば物語は7割完成だと思っているので、あとは内側の可変部でどうお遊びしようかなっていう。だって最初と最後が決まれば、真ん中のドラマは短かろうが長かろうが、物語は成立するわけで。
物語について①
作業と書いてしまったけれど、実際取り上げた題材はヒューマン的で、現代にも通じるものにした。介助の過酷さ、生き死にの扱い、SNSによる心の澱み、社会における自分の居場所、とか。そのどれもが社会の中では日常的に起こっているであろうものに注視したし、読み手それぞれが何かしら引っかかる部分があればいいと思ったテーマにした。以前、aotoさんや他の人が自分の作品は読み手の共感を誘うものである点を評価していただいたことがある。当時は基本的に相手に伝えたいとかではなく無意識に感情を吐露していた部分があったけど、俯瞰的には自分の弱さであったり、人間本来のいじらしさを冷静に捉えることに長けていたのだろうと分析する。それをうまく言語化できた結果がそれだったということ。
だからこそ、自分の作品は真面目である人にほど、強く効果を及ぼすのではないかと自己分析してみたりする。物語を純粋に楽しむ人よりも、書き手に迫ろうとする人たちにほどセンシティブに伝わる、それが自分の作品なんだろうなと。
けれど、そういう作品の赴きというのは読み手もそうだけど書き手も内側に内側に潜り込んでいくばかりで、なかなか外側に開かないというか、解放されにくいきらいはあって。書いた後も疲れが残ったままで、すっきりしなかったのが当時の状況だった。ルサンチマンが解放されないまま、ストレスが溜まるからまた書いてしまうという悪循環があった。よくないね、言葉の暴飲暴食はよくない。あれでは精神に良い栄養は行かなかっただろうなと反省する。
とにかくそういう経緯もあったから、そうね、大学の三年生ごろからはストーリーにも手心を加えようという気概が生まれた。ストーリーはおおむね外側向きだから、内側と外側の濃度とか足並みをなるべく揃えることが物書きの目標になった。
理想的なのは、外側を書いて、内側を書いて、外側を書いてというループが成立すること。今回の作品はわりあい上出来だった。極致は外側と内側が同時並行で進んでいくことだけど、まあそれはまた今後のこと。
物語について②
内容に関してはおおよそaotoさんの評論で綴られているから、省略しても構わないだろうという勝手なご都合で。
特記すべきことはとくにないのだけど、自分で読み返してみて思い出すことなど。
クジラ……子どものころからシロナガスクジラが一番好きな動物で、まあ今回は具体的にマッコウクジラという呼称でモチーフにしましたけどクジラは神秘的なので作品の題材としてはイージーでした。お題Bで書き上げた人たちにとっても、クジラは神秘的であったり、畏敬の存在であったり、大きく概念として捉えられていましたね。実際、それが正解だろうと思います。大きな存在というのは否が応でも作品の中で目立ちますし、折につけストーリーに組み込まれやすい存在です。
自分の作品においては主人公であるぼくの根幹としてクジラとチハルが座しており、やがてはクジラ=チハルという結び付けを意識するようになりました。ちなみにクジラの表現なんかについては、五十嵐大介著『海獣の子供』の印象が大きかったです。こちらの作品も元を探すとyukariさんに教えていただいものでした。
水族館……モチーフにしたのは沖縄県の美ら海水族館、大阪の海遊館、鹿児島県の水族館。別に共通項があるわけじゃないですが、水族館の内部に漂う青っぽさ、黒っぽさ、胎内っぽさを意識しました。作中、「トドの胃の中にいるような心地で不思議と気分が落ち着いた」とありましたけど、これは水族館に対する自分のイメージで、そこに行けば「ぼく」が冷静に物事を見つめたり、振り返るための差し込み口としての役割がありました。彼の仕事と関連づけることで定期的に行けたことも、クジラ(チハル)にちゃんとスポットできる効果もあったかなと思います。いずれにしても、物語が長くなる際は、こういった定期的に出戻りできる居場所を設定しておくと進行に詰まりにくくなると思います。RPGの商店とかと同じです。冒険から帰ってきたら、冒険の間に勝手にストーリーが進んでいたりするじゃないですか。そんなイメージです。その場所の設定をリアルにするか、ファンタジックにするか、メタにするかは物語次第ですけど。今回は水族館。
吉岡……作中では主人公であるぼくの良き上司としての存在感がありました。利口で、したたか、できる男って感じです。作品の後半、ぼくと蔵王温泉に向かうシーンでは車内で彼の生い立ちが彼自身の口から語られます。やはりアーティスト性と社会性にどう折り合いをつけるかというのは個人の問題でありながら、それを支援する後ろ盾も必要なんじゃないかなと思っています。しかし最近の状況を見てますと、どういう社会に入るかよりも、どんな社会で自分を生かしていくかのほうがよほど重要な気がしています。自分の場合はちゃんとお金が得られる社会にはいるけれど、本音は創作の道で自分を生かしていきたいという思いが強く、「仕事副業、人生本業」という吉岡の言葉は実はそのまま自分の考えに基づいていたりします。
西京彩水……吉岡に名前をもじられてストロンゲストさんと呼ばれている主人公であるぼくの同僚として描かれています。立ち位置としては実質的なヒロインと言っていいんじゃないかな。別段、作品の中で二人の関係がどうこうなるということはありませんケド(aotoさんも書かれていますが、おおよそぼくの内面だけで勝手に盛り上がっているだけに過ぎません)。恋仲にしたら軸がずれちゃいそうでしたしね、結局は吉岡同様、ぼくに良いアドバイスを与えてくれる人間という存在で貫きました。しかしながら、彼女の存在は最初はまったく考えていませんでした。ぼくとチハルと吉岡がメイン人物として進行していくだろうと思っていましたし。
ただ、これが物語を書いていて面白い部分で、「予期せぬ登場」を仕込むのは書き手でなく物語の方だったりします。物語の方が自分にもう一人キャラを追加しろと注文をして話を聞いてくれなかった。あるいはこういうストーリーを追加しろと言ってきたり。
自分じゃ全然思いもつかないものを向こうが与えてくれる。こういう経験がある人は、創作向きですよ、間違いなく。
つまりそれは作品との対話ができていることに他ならず、物語が提案してくれたアイデアは確実にその後の展開に大きなチャンスをもたらします。だから自分もそのときは物語が長くなりそうだったので迷いましたけど、一人分追加することにしました。それが西京さんでした。人物を考えるのが面倒くさかったので、お題Aからお題Bにそのままスタジオを移動してもらいました。結果的に広告会社に女優業を引退した人がいるという奇妙なシチュエーションが生まれましたけど、めぐりめぐって素晴らしい働きを担ってくれたことは間違いありません。ほんとうに西京さんさまさまと言ったところでしょうか。
これは余談なのですが、お題Aでは二人の女性が物語の中心にいました。一人は芸能界の先輩である国見香苗、もう一人は子役であった少女が大きくなった西京彩水。二人の名前はお題Aにあった香水を一字ずつ拝借したものでした。
兄……主人公であるぼくの実兄。ぼくは彼をMTM(マジでただの無職)と称します。ほんとうは兄弟二人でドライブしながらのエピソードも考えていたのですけど、西京さんの登場によって断念しました。作中ではひどくネガティブなイメージを与える存在であり、ぼくの苛立ちや切り離せない家族のつながりに懊悩する材料として印象付けられています。しかし、今作のサブテーマには家族のつながりというものもあって、全然似てないつもりでもやはり似た者同士であることを本人は自覚せざるを得ないというところが味噌でした。兄のFacebookのシーンで、ぼくは狂気に曝されますが、これもまた兄の気持ちを理解できるけど許せない感情、自分がチハルのそばにいないことに対するもどかしさの表れでした。ぼくはつねに兄のことも意識しているし、わかっているからこそ、どうにもできないやるせなさにずっと悶々してしまいました。
そういう自分を見抜いてアドバイスをくれた吉岡は偉いですね。二人で温泉に入りながらぼくに語りかけてくれたアドバイスに関しては、実のところ自分がもっとも探し求めていた答えでした。かなりメタ的になりますが、この作品でぼくが抱えていた悩みは、形は違えど自分自身の悩みでもありました。正直、どうにもできない、どうにもならない人に自分が何ができるのかをずっと考えていました。自分がこの作品に期待したことは、取りも直さず主人公であるぼくが探し求めていた答えと同じで、恥ずかしい話ですが、物語に何かしらの答えを見出そうという浅い魂胆で、この作品は書かれました。
書いてみて、その答えがはっきり出たかどうかはわかりません。でも、吉岡がぼくにくれたアドバイス、その文言は確かに真実であり、自分自身もすごく納得できるものであったことは非常に嬉しかった。
吉岡「今のお前は物理的に離れているし、それでもチハルちゃんのことをしっかり考えているならそれは何も間違ってない。(中略)チハルちゃんの命を今も息づかせているのは、間違いなくお前らの思いだからな。そういう誰かの途轍もない思いを前にすると(中略)お前の家族も交代々々で必死に頑張るんだよ」
吉岡「お前はずっとこれからも向き合い方について死ぬまで悩みあぐねるはずだよ。でもその悩むことが家族の一員としての正しいかたちだと俺は思うね」
ぶっちゃけ、これを書いたときは涙が出そうになった。
自分がちゃんと思っていればそれに応えてくれる人たちがどこかにいて、その思いのために頑張ってくれる人がいる。だから、自分もその思いを絶やさないように頑張って向き合わないといけないんだな、と。自分で書いた作品ではあるけれど、この言葉に関しては間違いなく吉岡が紡ぎ出した言葉だったと思う。こういうことも起こるから、物語は書き終わらないんだよね。書くたびに新しい発見ができる。それが創作の醍醐味。今回はほんとうに吉岡に感謝してる。マジ感謝。
温泉……目的地という扱いで設定。蔵王温泉にしたのは個人的に行ってみたいからで、こうやって物語の中で印象的に書いておけば、人生の中で必ず一回は行こうと思うようになる。わりと、自分の作品で実在の地名を用いることは多くて、その理由は言ってみれば聖地巡礼をするための準備みたいなもの。その場所で誰がどうしたということをたくさん書いて、いつか時間ができたときに実際に行ってみて、いろいろ感傷に浸りたい。そういう娯楽がしたい。以前、400ページの長編を書き上げたとき、同じように鹿児島県の水族館を目的地として設定したんですけど、それから何年後かな、4年後くらいに用事があって鹿児島に行くことがあったから実際にそれまで行ったこともなかった鹿児島県の水族館に入ってみたんだけど、まあ面白かった。物語においては全部創作だから、イメージでしか書けないんだけど、実際に触れてみたときに、「あれ、意外と合ってるじゃん。え、すご」みたいな感想が独り言のように出てくる。あれ、面白いよ。デジャブに襲われた気分になる、ほんとうに。だから、今回も蔵王温泉を描写したから、いつか山形県に遊びに行ったときは行くべきだと思う。
あれ、そうなるとパキスタンのフンザにも行かなくちゃいけないのでは?
いやいや、そんなわけ笑
砂漠……西京彩水が女優業を引退してから旅行した際に訪れた土地。今作では不毛な場所という印象を与え、タイトルにある通り「無情」をイメージしました。西京彩水は砂漠を見て受けた残滓が嫌だったため、パキスタンに南下し、彼女は自分が見たかった運命の景色に出会うことになります。そしてタイトルを大声で叫びます。たぶん、前半を読んだ人はここでそれが来るか、と膝を打ったことでしょう。「ふりかえる無情の砂漠に春吠える」という題名は、ぱっと見た感じではネガティブ向きな言葉が並んでいます。読み進めていると、主人公であるぼくの感情がタイトルになっているんじゃないかという印象さえ与えます。しかし、それを逆手に取り、西京彩水が過去の寂寞に別れを告げ、人生に希望を見出す言葉として引用したことで、イメージが反転します。
これはとても気持ちが良かったです。キャッチコピーなんかで上から下に読むとネガティブな内容が、下から読むと意味がひっくり返るみたいなのがたまにありますが、そういうことをやってみたいなと思って、頑張りました。そういう目論見もあったので、タイトルの構成には時間がかかりました。時間をかけた甲斐はもちろんありましたね。小説を読んでいるときの面白さって、やはり読み終えたときにタイトルと内容がシンクロするとき。これを体現できたことはいい経験。カタルシス。カタルシス。
だいたいが、お題B作品に関する雑記。
結局、この作品を一言で表すなら、大切な人を支えてあげたいけどできない自分の苦しみと、どうにかできない自分にできる何かを必死に追い求める話です。こうやって抽象的に描くと大袈裟ですが、実際にはクジラの絵を描いただけです。けれども、ぼくにとってはその行為がたいへん大きな意味をなし、あるいは救済でもあったし、絵を飾ったあとは射精にも似たグルーミーな倦怠感を覚えるほど、やり切ったという気持ちに包まれます。ただ文字だけで表してみるとますます大袈裟が過ぎますけど、どうしてか作品を通してみると、ほんとうにすごく意味のあることに感じてしまうもので、自分自身物語の持つ強さを実感するわけです。そういう物語を書き上げられたことはやはり大きく、あまつさえ読み手にも少しでも思いが伝わったのなら、これ以上の喜びはありません。
こんなことを書いていると、くるりの「ばらの花」を聴きたくなってきたので、このあたりで筆を置きます。全員分の書評、まことにお疲れさまでした。企画立ち上げもありがとうございました。次の機会もあれば、また参加させていただく所存です。
プロットはもう出来ておりますゆえ。
不乙
参考
http://aonojugou.blog.fc2.com/blog-entry-460.html
引用