ここもきっと「仮想」。

 

自粛期間が長らく続いたこともあって、今年はYouTubeを見る時間が大きく増えた年だった。

とりわけグラフィックモデルを用いて配信を行うVtuberの沼にだいぶどっぷり浸かってしまった。一年前じゃとても考えられなかったことだ。


一体なにがそこまで自分を虜にしているのか、なにに魅力を感じて彼らの生き様を見ようとするのか、実は未だに答えを見出せていない。

普通の配信者であれば生身のままを写しながら実況するやら、音声のみを用いて配信するやらあるのだろうけど、あれらは個人的に好かない。気持ち悪くて見れない、聞けない。歌ってみた系の動画に対する拒否に似た感覚に近くて、具体的な説明は難しい。

たぶん、作品の中に人間の個を押し出されるという状況を見るのがいっとう堪え難いのだ。自分が長い間創作に浸っていた弊害としか言えないのだけど、絵なら絵、小説なら小説、歌なら歌、音楽なら音楽、劇なら劇として完結してほしいという気持ちがもれなく強いから、ひとつの動画という作品に人間が一人でも混濁しているのは好きじゃない。けども配信者自身もある種の作品である、という見方をすればこういう屁理屈も矛盾はしてくるのだけど。


兎にも角にも、自分が動画を見るときと言ったらこれまでは音楽だけとか、お笑いだけとか、そのコンテンツで完結するものばかりがメインだった。

ところがVtuberという存在を認知し、挙句沼にハマってしまってからは、ゲームの実況だったり、歌ってみたであったり、自分が心底敬遠していたコンテンツをすんなり受け入れてしまった。これが自分の中で圧倒的に衝撃だった。

マジでマジ。


これについて自分の中で突き詰めた結果わかったのは、誰かが産み出したバーチャルモデルに人間が宿った瞬間、それが一つの完結したキャラクターになったため受け入れられるようになった、ということだった。キャラクターは概念であり、物語であり、そして自由に動くもの。だから何をしていようが受動できる。

確かにキャラクターの中の人は存在するし、普通にリアルの話だってするし、メタな状況は全然あるのだけど、そこに対する人間への拒否感は微塵も感じない。むしろ愛着すら湧いてくる。

しかるに彼らのスタイルそのものが自分がかつて身を置いていた状況と酷似しているからなんとなく親近感を覚えてしまうのだ。

すなわち瀞石桃子というキャラクターになり、作品を産み出している、そして創作者どうしがコミュニケーションを行うということ。

そこに尽きる気がする。

自分は生身で生きていけないと知っているから、この名前を冠して、いわばそこに人生の責任をある程度なすりつけながら、あるいは何割か背負ってもらいながら生きているけども、たぶんそういうことなんだなって。似たものなんだろうなって。

だから自分は、バーチャルとリアルに身を置きながら『作品づくり』をしている彼らに興味があるし、応援したいと思っているし、期待もしている。

もはや沼ってしまったら、今さら理由なんてどうでもよくなるし、ただただ彼らが今を生きていると感じることに尊さを覚えるし、エモいと感じるし、1秒でも長く生きてくれってまことに思うのだけど。推しが今日もいつも通り活動してくれるだけで、救われる命がたくさんあるんだなって。

新衣装発表とか3D化決定とかなったとき、手放しでおめでとうと言える、素直に自分のことのように嬉しくなれるのってほんと凄まじいことだなって。

今のYouTubeをはじめとする動画投稿サイトって視聴者が投げ銭(スーパーチャットとか)ができるようになっているけど、それをしたいという気持ちが今はすごく分かるなって。良いものを見せてくれた、感じさせてくれたことに対する謝礼金がそれなんだよね。

幸せはお金で買えない、だけどお金を使って幸せを分けてあげることはできる。幸せを共有することはできる。

それもまた素晴らしい文化のような気がしている。

今はそのことをとても強く思う。


そういうわけでVtuberについてはもう少しだけ書きたいので、ここまでは前半でした。

また後半にて。