勉強します

不安に期待を上塗りする日々はひとまず終わった。11月に受けた資格試験の合格証が無事に手元に来た。

実際にはこの合格証がスタートラインなのであって、来たる二次試験に向けて今からでも勉強に励んだ方が身のためになるだろうと思いつつ、日曜日夕方のこの頃、文章をそぞろに認めている。

年明けの能登地域の地震からすでに二ヶ月が経過し、復興の兆しは見えつつも生活の依代が完全に復旧したわけではなく、現地の人々の苦労を考えると切ない気持ちにもなる。一方で、当たり障りのない凡庸な日々の中にいる自分のやるせなさに何度ため息をついたかわからない。年齢の重なりに対する自身のポテンシャルの低さや、向上心の無さにがっかりして、やる気を出すためのやる気が出ない毎日が続く。平日は仕事ができる。与えられた義務だから熟すことができる。休日は何かをする義務がない。強いて言えば衣食住程度のことで、具合が悪いのは「別にしないならしないでも大丈夫」というところだ。何が大丈夫かと言うと何も大丈夫ではないし、一日一食の生活、風呂に入らない生活、寝る時間が不規則な生活、横たわったままの生活、そのどれを取っても決して好ましい状況ではない。それにせよ大丈夫と意地を張っているのは、兎にも角にも動く行為自体が思っクソ七面倒だ、というただそれ一点で。ひたすら生きるのが面倒くさい。何かしなくていい分、余計に何かすることがどうでも良くなっている。

良くないのにな。良くないんだよ、お前。って常に思っている。

そのくせ人に好かれようという度し難い性質に、本当のところぶん殴ってやりたいところ。殴れやしないのに。そういった低反発の重苦しい現実がたまらなく嫌になって、いっそう生活リズムは、というか自律神経と呼ばれるものは乱気流に巻き込まれた風船みたいに錐揉みに遭って、どうにもできない。

いま自分が生きているのは平日に仕事をする義務があるという理由だけであり、ワーカーホリックというには恐れもあるけれど、仕事をすることで初めて空虚な自分から逃れることができる。

そういった有象無象の壁に直面していたからこそ、ようやく資格試験に合格できた証を手にする事ができたことで、一時的に延命できたと思う橋梁この頃。

何もしない時間を作りたくないという本音のところで、それを埋め合わせるだけの充実した内容が最近はなかった。

資格の勉強をしよう。それで将来の自分に期待が持てるのなら、今を埋め合わせるに足り得るのなら勉強をしましょう。ゲームもいいけれど、ゲームより勉強をしたっていいんじゃないですか。勉強をして疲れることも勿論あるけれど、明日につながる建設的な疲れじゃないのかい。

勉強をしよう。勉強をしよう。勉強する時間はあるのだし、勉強をしよう。勉強をして、勉強すればたぶん悪くなることはない。勉強しよう。勉強しよう。勉強しよう。勉強しよう。勉強して、勉強するのだ。勉強をします。