「ほぼ1時間ちょうど山手線を一周する」という話は噂で聞いていた。
大学生のとき、新宿駅で乗車して実際にどのくらいかかるか計測してみた。確か61分だった。乗る人降りる人が大勢いる中、扉の隣の席から動かない人が一人、狭い空間は社会の縮図で、姿見みたいに世間を反映している。そういう空間にじっと座って、およそ一時間を過ごした。
その後どこで降りたのかは覚えていない。ただ、自分の感覚で上記の云われを体現できたことは非常に嬉しかった。
新たに高輪ゲートウェイ駅が開通した現在、今後の路線の状況次第で一周一時間という法則が成立しない場合はあるだろうが、終わりのない周期にみずからのメスで区切りをつけ、一時間というこれまた別の区切りを与えることができたことが何とも新鮮だった。
大学生だったし。
何につけても、我々は周期というものに符号をつけたがる生き物であるとつくづく思う。
一年が12か月で一周することも、春夏秋冬が日本における一つの周期であることも、オリンピックが四年に一度行われることも、好きなアーティストが20周年を迎えて記念ライブをすることも、推しの生誕祭を祝うことも、周期の節目に期待を抱いたり感謝をするというのは人間のさがのようだ。
そしてまた、人間の細胞というのも7年で入れ替わるという話がある。(多少の論拠や実際の特性を無視するならば)純粋に7歳で入れ替わり、14歳でまた入れ替わり、21歳、28歳、35歳・・・現在の人間の平均寿命に当てはめると一人の人間でも約11回は細胞が生まれ変わる換算になる。
その計算で行けば自分も来年あたり、4回目の細胞の循環を経験するということになるわけで。
新しい節目、自分はそこに何か期待しなきゃいけないような気がしている。要するに28歳から35歳の間の7年間、未曾有の世界をあてどなくもがいていかなければならない自分の細胞たちに。
今の自分の細胞は一つのピリオドを迎えようとしていて、振り返ってそれが良かったのか正しかったのか悪かったのか上手くいかなかったのか、それなりに内省をする時期に入っている。
自分はそこにある種の死を透過しているし、同時に生を反射するガラスのようなもとして捉えている。生はつまり世界だ。
折につけ、自分のあれこれに評定を下し、次の周期に期待をする。一枚一枚カードをめくっては厳正に峻別をして、残すものは残し、継続するものは継続して、干からびるものは置き去りにして。
そういう作業を最近行っている。そうなると必然的に過去の事象を揺曳しなくてはならなくて、そこにまた自分の家族だとか、関係者だとか、自分の生に携わってきた人間たちも自分の現在位置を見定める材料としてノスタルジックに自分を追及してくる。
節目が訪れるたび、混沌とした暗澹に上から下から飲み込まれてしばらく身動きが取れなくなる。外にも出るにも慎重を期さないといけないこのご時世、自分の内側に溜まっているものが粘度を増し、孔から出にくくなっている。だからそこに囚われてしまって思い通りにいかない寄る辺に身をつくすとか。
変わっているだろうか、いい方向に。
自分の向いている矢印は健やかに信じたい。
というか、信じなくちゃ生きていけない。
選択をすべて誤らずに踏んでゆくことは難しいけれど、悪路に至ったときに自分に寛容になることは少しずつできてきているような気はする。
アンバランスなのは今も変わらないし、針が大きくふれて、気が触れてしまいそうになる時もあるはあるけれど。
仕方ないときも、ある。
クヨクヨするときも、ある。
失敗を割り切らないといけないときもある。
それでも。
夏は終わってしまうし、冬はやってくる。
一年はちゃんと12月31日で終わりを迎えるし、1月1日からは新しい始まりが幕を開ける。
衛星軌道上をなぞる無数の星々と同じように、自分らの生活にもたくさんの周期と栄光と衰退がある。それがきっと7年でリセットされる。リセットされるごとにまた別段の目標を掲げ、なんなら達成に邁進しないといけないのね、私たち。
思えば、このブログもどきも今回でようやく一年分になる。始めたのが去年の9月1日、今日は言ってみれば一周年記念なんだな、と、これを書くにつけ振り返ってみたわけです。
だからこそ、そう。
この一年のことを色々思ったりしちゃって、反省すること、感謝すること、多々あったな、と。
一周年が経った。この節目は通過点にしたい。この周期を守ることは自身の安定に寄与するはずだ。そう思ってこれからも同じペース、同じ要領で進めていけたらこれ以上望むこともあるまいさ。
とにかく長く続けること。
持続力。
持続力が欲しい。
あと瞬発力も。