『ライ麦畑でつかまえて』を最初に読んだのは大学生のときで、主人公ホールデン・コールフィールドによる口語的な口調と、彼の世の中に対する苛立ちや苦悩が自分にフィットした結果、読後、ずいぶん長いこと自分の作品に影響を与えた一冊として胸に残り続け、数年が経ったいま、改めて読み返してみようと思った。
白水社が出版した『ライ麦畑でつかまえて』はアメリカ文学者の野崎孝さん翻訳によるもので、主人公のティーンエイジャーらしい子生意気で、ひねくれていて、背伸びしたような口語調が実に小気味よかった。
今回読み返したのもお馴染みの青とクリーム色の表紙をしたもので、一日10ページずつぐらいを余さず朗読するという奇妙な形で読み進めた。
わざわざ朗読なんていうまどろっこしい手法を採用したのは単純に舌の筋肉を鍛えたかったのと、発音を良くしたいという目的があったから。滑舌が悪いとかわけじゃないんだけど、普段があまりに人と喋らない生活なので、その維持のためというか。
実際、この朗読という方法を功を奏したように実感するし、ゆっくり読み進められたことで再読の理解度は高まった。
同時に朗読して感じたこととしては、主人公のホールデンはやはり話し方にくどさがあったことに気づいた。
今回は、名作『ライ麦畑でつかまえて』を読み返した感想と、自分なりの解釈について書いていきたい。
主人公ホールデン・コールは一言で表せば、つねに自分の見られ方を気にして、インチキな世間に対する不満をだらだらとこぼし続け、しまいには喚いてしまう。意気地がなくて、何もかも中途半端な青年だった。
作品の後半で、彼の妹のフィービーに
「兄さんは世の中に起こることが何もかも嫌なんでしょ」と言われる始末。
また、それに対して憂鬱になって、まともな反論すらできなかった。
ホールデン・コールフィールドは作中では16歳ないし17歳くらいの「子どもと大人の中間」の年齢として描かれている。
ゆえに彼は子どもの純真さがありつつ、大人のように振る舞いたい(あるいは見られたい)という欲求──しかしこの欲求はことごとくホールデンの肌には合わない──の狭間で揺れ動いていた。
軋轢だらけの大人の世界は、それなりのスルースキルやら愛想やらを求められてしまうわけだけど、ホールデンはこの能力が乏しくて、いや、乏しいというより、愛想やおべっかと言ったインチキを許容できないという点から、彼は大人たちに混じっても同様に振る舞うことができなかった。どの部分を見回したもしても、それは一度としてうまくいかなかった。
彼自身はうまくできていると思っているつもりでも、第三者や読者にとっては、見ていられないほどチグハグな具合だった。
とくに彼が高校を追い出されて、家に帰りたくないという気持ちから街をうろついている間、何度もバーに入ったりして、未成年にも関わらずお酒を注文していたが、大人の目を誤魔化すことはできなかった。タクシーの運転手なんかにも、こんな遅い時間に若者がどうしたんだと尋ねられるくらいだし、よほど見た目が若かったのかもしれない。
ホールデン自身は、自分は白髪だらけで背も高いし、煙草も吸っているのだから大人と同じだと思っているけど、作中ではそのような扱いは一切されなかった。大人を相手に気取った話し方をしても、訝られるだけでまともに相手にすらされなかった。
そして相手にされないことに対してチェッと拗ねてみたり、相手にされないのはそいつ自身のおつむが足りないからだと正当化しようとするばかりだった。
ホールデンは一貫して、自分の見てくれをすごく気にしながらも、自分が周りからどう見られていたのかをきちんと分析しなかった。この点が本作品においてはかなり重要で、要するに作品を通じてホールデン・コールフィールドという青年は大人たちに混じりながら、一切合切変化をしなかった。成長しなかったと言っても良い。
大人に諭されるすべてに対してホールデンは聞く耳を持たなかった。反抗期という背景はもちろんあるのだろうけど、ホールデンに関しては度が過ぎるくらい人の話に耳を傾けない。
さまざまな解釈として彼に精神疾患があるという見方もあるけど、それが納得できてしまうくらいにホールデンの意識はつねに散漫としていて、他人のアドバイスのようなものは自動的に意識から排除する処理が行われているようすがある。
なんだかそれは、ドラえもんにおけるのび太君と似ているところがある。ドラえもんではのび太がヘマをするところから物語が展開するのがお馴染みの構図なわけだけど、もしもこれがのび太が人の話を正しく理解できて、それに則った行動ができる優秀な少年ならばヘマはおのずと減るはずなのだ。けれどそうなってしまうと、漫画ドラえもんとしての組み立ては崩れてしまうから、のび太はいつまでも同じキャラクターとして描かれなくてはいけない。
ところが一方で、現実問題としてのび太君のように中身が変わらなさすぎるのは明らかな欠陥と捉えられて自然だし、ましてホールデンがなんとなくなってみたいと思っている大人や、大人たちの世界はそれではまるきり通用しないのだ。
何度か、ホールデンは色んな人たちに
「大人になれよ」と言われる。
この言葉は瑞々しい若者にはとても胸に刺さる。大人になれ、と言われるのはその発言に至った言動が幼稚であり、年相応ではなかったからだ。ホールデンは大人になれ、と言われる身の丈であるにも関わらず、それに合った言動ができなかった。
一言、「未熟」と片付けてしまえば、確かにそれだけでホールデンという青年の輪郭はちゃんと捉えることが可能だった。
作品の終盤、ホールデンはアントリーニ先生という彼が慕う先生のもとへ出向く。アントリーニ先生に対してホールデンは自分の不始末について説明をする。けれどもやはりその中でもホールデンは、どこかで自分は悪くない、または自分をやましい人間ではないと訴えかけようとする。その弁明がアントリーニ先生がホールデンから聞き出そうとしている中身とは乖離しているため、ホールデンの言っていることが真実だったとしても狼少年のような、そういう印象を受ける。
アントリーニ先生はホールデンに対してこう述べる。
「僕の感じでは、君はいま、恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいるような、そんな気がするんだけどね。(中略) この堕落は特殊な堕落、恐ろしい堕落だと思うんだ。堕ちて行く人間には、さわってわかるような、あるいはぶつかって音が聞こえるような、底というものがない。その人間は、ただ、どこまでも堕ちて行くだけだ。世の中には、人生のある時期に、自分の置かれている環境がとうてい与えることのできないものを、捜しもとめようとした人々がいるが、今の君もそれなんだな」
このホールデンに対する認識は、小説という枠組みからより外側に、メタ的に敷衍すれば、世の中の若者に対する警鐘でもあるように感じる。すなわち、作者であるサリンジャーがティーンエイジャーに向けたメッセージだと捉えることができる。
実際、アントリーニ先生は、この堕落の種類について、どっかのバーで坐りこんでいて、大学時代にはフットボールをやってたような様子をした男が入ってくるたんびに憎悪をもやすとか、『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間になる可能性もあるとか、どっかの会社におさまって、身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になるかもしれない、などと例を挙げる。
自分ではない誰かが溌剌としていたり、成功体験を納めていたりするのがホールデンのような若者には鼻持ちならなくて、加えてそこに固執してしまうことが底のない堕落に突き進んでしまう、と、そういうふうに自分は解釈をした。
アントリーニ先生は教育者であるため、ホールデンにきちんと希望の道も提示する。なかば、彼が聞く耳を持たないという確信はありつつも、アントリーニ先生はホールデンに今一度学校に戻って教育を受けるように諭した。
そうなんだよ、教育を受けることが全てではないにせよ、教育そのものが自分の尺度になりうることは絶対にあって──たとえばそれは数学が好きであるとか、反面英語は苦手だとか、それによって自分がどういう存在であるかを客観的に理解する材料として教育は価値があると自分は信じているし、アントリーニ先生はそれを「自分の頭のサイズがどれくらいかを、わかりかける」と表現しているのもとても良いなあと感じた。
勉強が将来何の役に立つのか、と疑問を抱く学生はもちろん多くいるが、それを飲み込んで耐え忍ぶことには偉大な意味があるし、逆に何も役に立たないと、それよりも好きなことをした方が有意義だと考えて、実際にそのような行動に突き進んでいくことは、もしも、どの時点かで蹴つまずいた際、おそらく立ち直るために相当な時間が必要になる。この立ち直るまでの期間を、アントリーニ先生は堕落と称しているのだろうと思う。
自分も、身近にホールデンのような若者が何人かいた。若者だけではなく、大人になったつもりのいい歳をした人たちも含める。
それらの人たちは往々にして、自分がこうであるという確固たる芯の質量がまったくと言っていいほどなかった人たちだった。
中身が空っぽなのではなく、世の中から受容できるあれこれに頓着がなかったり、あるいは幼い時分に得られたものを大人になっても手離すことができないとか、人の言動が何もかも気に食わなくて不平不満をいつまでも言い続けたり、またそれによって周囲の人間に煙たがられていることを察知できないとか、「ホールデンのような」と形容する具体例を挙げると枚挙にいとまがない。
結局のところ、世の中に順応することができない、それがホールデン・コールフィールドという青年だった。
この解釈は社会に適応することの重要性を説いているのではなくて、フィービーがホールデンに「好きなもの」や「なりたいもの」がないかと尋ねて、何一つうまく答えられないような人間は、こぼれた油のようにじわりじわりと堕落し続けてしまう恐れがあると自分は考えている。
ライ麦畑でつかまえて、というタイトルそのものは、ホールデンがフィービーになりたいものを尋ねられて、答えた一説なわけだけど──広いライ麦の畑やなんかがあってさ、僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──と言う場面、これも突き詰めると、ホールデンがなりたいものではなくて彼の理想郷、要するにインチキが何もない、自分が傷つかなくていい透明な世界を語っているだけに過ぎない。
これに関してフィービーは肯定も否定もせず、ずっと黙っていた。そこにどんな意図があったのかはわからない。
ともあれ、ホールデン・コールフィールドという青年は学校を追い出されてから、家出をして、最終的に家に戻って、精神病院に入るという物語の終わりに至るまで、何も変化を遂げなかった。
ライ麦畑でつかまえては、そういう類いのジュブナイル作品だった。
ここまで駆け足でざっと解説してみたけれど、またどこかでじっくり語る機会があれば、また引用してみようと思う。いずれにせよ、自分に大きな影響を与えた一冊であることは紛うことない事実なので。
はてさて、少しばかりのクールダウン。
残りは本作品の講評。
『ライ麦畑でつかまえて』という作品をリアルに当て嵌めてしまうと、ホールデンの顛末は落伍者のそれと等しかった。お世辞にも彼は人に褒められたような行動はできていなかった。
しかしながら、物語という括りに主眼を合わせると、この作品の結末はもっとも理想的な形の一つだと自分は信じて止まない。
自分はそれを「世界が元のあるべきところに戻った」と表現するのだけど。
たとえばそれは漫画やドラマなんかで、冒頭の一幕がラストのページとまるきり重なる(微妙にシチュエーションや言葉は違っても)だとか、そういうもので。
起承転結の結が起に向かって矢印が向いているというのは、非常に爽快感がある。線の始点と終点がつながることで、それは円を描き、空間を産み出し、広がりを与える。
たとえ結末がハッピーではなくても、その先に始まりがある場合、読み手はかすかな希望を感じられるのだ。
自分が思うに、希望ってのはとても良いもので、小さな火のようなものかもしれないけど、間違いなくハッピーよりも長持ちするものだ。
ハッピーにはあまり多く種類はないけども、希望にはたくさんの種類がある。希望を持ち過ぎたって、誰にも言わなければ何も咎められないし、疎まれることもないし、いついかなる時だって気持ち次第で希望を大きくすることも小さくすることも自由が効くし、希望を無くすことだって自分の意思の風向きに託すことができる。まるで風船のように。
物語においてもそうだ。ハッピーエンドにしようとするとおのずとストーリーが決まっていくけれど、希望エンドにしようとすればより多くの道筋を検討することができる。
それはすなわち物語の可能性を自分なりに工夫することができるということで。作り手の楽しみってそういうところに宿ると思っていたりするのだけど。どうだろう。どうなんだろうね。
まあとにかく、いつの間にやら話の主題がライ麦畑でつかまえてから逸脱してしまったので、今回はこのあたりで打ち止めにしましょう。
そんなこんなで今月のタイトルはもちろん、