ここもきっと「節目」。


なんだかんだと言われたら、今年で物書きを始めて10年が経過する。物書き自体が生活の一部と化していたから大きな実感はないけれど、費やしてきた時間だけをみると数千時間に及ぶし、文字数だけなら100万字近く紡いできた自負はある。

きっかけは高校時代、ライトノベルを読んでいたときで「このぐらいなら自分で書けそう」という傲慢なやる気が湧いたのが始まりだった。親に頼んで中古のノートパソコンを買ってもらって、誰にも内緒でちまちまタイピングしていたのを覚えている。

その年の夏休み、ライトノベルの公募に投稿してみようという気になって200ページの作品を書き上げた。高校時代に他の人には味わえない独特な達成感を得たことは、巡り巡って今の自分の創作の原点になったように思う。その処女長編がまた、公募したコンテストでそれなりにいいところまで残ったので、味を占めたというか、アドレナリンが出たというか、いっそうのめり込む状況に至った。

書くと気持ちよくなるという感覚は確かにあったし、一時期はそれが目的になることもあった。


学生時代を青春と称するのが通例ならば、自分の青春はまさに小説に彩られていた。家に帰ってやることは宿題ではなく小説だったし、パソコンがない場所、たとえば学校では授業中などにノートに小説を書いていたし、当時使っていたガラケーのメモにもびっしり言葉を詰め込んでいた。

この頃から夜更かしが常態化していて、夜中の3時とかまで小説を書いたり、プロットを作っていた記憶がある。ことさらにキャラクターの名前だとか設定だとか綿密に工夫を凝らしていたのは若気の至りで、文章を書くにも真面目に辞書を引いて強引に慣用句をねじ込んでみたりとか、会話と地の文は3:7が好ましいと言われているから意識的にそうしたりとか、面白くないと感じたら面白くするにはどうすればいいか試行錯誤したりとか、当時はたいへん地味な努力をされていたように思う。

もちろんそれらの行為は悪いことでもないし、文章力の地力を鍛えるという点では多いに必要だった。現在を鑑みると、培ってきた努力は肯定的に受け止められるし、文章を書く力はのちのち大学で論文を書いたり、社会に出てから文書を作成しなくてはならないタイミングにおいてまことに有利にはたらいた。

高校三年生は受験があって、受験後から大学に入学するまでの一ヶ月もそれなりに時間があったから、ここでも再び200ページの小説を書き上げて投稿した。若さとは恐るべし。けれど、この件に関しては箸にも棒にもかからなくて、小説を書くこと、あるいは人に面白いと感じさせる小説を書くことの難しさを強く痛感した。


ただ書くだけでは大きな意味をなさないのだと、そのときに知った。


大学生になると、携帯はガラケーからスマホに移行し、小説と並行して少しずつ日本でも広がりつつあったSNSの文化にもどっぷり浸かることになった。自分と同じように小説や物書きを一種の趣味としている人たちの集まりに飛び込んでみると、自分が書いた即興小説であったり、リレー小説について賞賛される機会にふれてしまい、この経験がずうっと今日の今日まで物書きを続けてきた自分のモチベーションになってしまった。

評価をされて承認欲求が満たされると、さらに相手に褒められたくてまた文章を書くというサイクルにハマって抜け出せなくなってしまった。

書く気持ちよさは時間とともにだんだん変化して、書かずにはいられないという中毒状態になってしまった。どんな形であれ中毒になってしまうと生活はぐずぐずになってしまうのは必然で、最終的に自分は大学時代は鬱になった。

文章を書かずにいられないのに、書いたものに納得できない日々が延々と続いて、むなしく、悲しく、暗闇に迷い込んでいた。

光をつかむきっかけになったのは大学三年時の夏休みで、ある理由から長編小説を書くことになった。元から投稿をする気はなくて、そのとき初めて誰かのために物語を作るという経験をした。実際に書き上がったものは、400ページ、文字数にして20万という破格のもので、1ヶ月まるまる使って精神をすり減らしながら作り上げた。自分の感性を最大限まで尖らせて、身を削りながら物語に向き合ったあの時間、あの体感はかなり濃密で、そのときの努力の甲斐もあって、今なお物書きの魅力に取り憑かれている気がする。

また、その20万字の物語を書いた後、数ヶ月後に今度は10万字の物語を作り上げた。こうして振り返ると、とにかく自分はいわゆる長編作品を書くことに特化したタイプの人間で、必ずと言っていいほど物語が長くなる傾向があった。そのぐらい書かないと自分が表現したいものを産み出せないという物理的な問題もあるけれど、それ以上にやはり文章を好きに書いている時間が気持ちよくて、つい夢中になってしまうからなのだろうと思う。

勝手に頭の中に言葉が溢れてそれを書かずにはいられない人間なのだ。言葉ホリック、そういう言葉がお誂えなんだろうなと常々感じる今日この頃。

大学卒業後、院に進んだタイミングで自分は今後は徐々に物書きからは離れていこうと考えていた。物書きをすることは確かにメリットもあったが、反面、精神的な部分においても肉体的な部分においてもリスクが大きい側面があった。より専門的な分野を学ぶために院に進学したのに物書きにかまけて本領をおそろかにしては本末転倒だから、やはりその意思は固く、よしんば物語を作るとしても非常に不定期だったし、以前のように10万字を超える長編はもうできなくなった。

同時期、物語に対する向き合い方にも変化が現れていた。というのは、それまで自分の物語は誰か別の人のためにあったのだけど、そのために心血を注ぎ込んで書いたとしても、世の中の流れに放り投げるとあっという間に取り残されるというか、素直なことを言うと頑張って書いても周囲に読んでもらいにくくなってしまった。こんなに色々犠牲にしてまですることでもないのではないか、という心境になりつつあった。

だから、それ以降、物語の質は70%で上等になってしまった。人間、物事の出来を70%にするのにはさほど苦労ではないし時間もかからない。むしろ70%にしたものを100%にしようとするほうが労力も神経も使うし、なかなか進まず時間だけが過ぎてしまうようになる。

だから、物語は70%で良くなってしまった。それを「いい加減」という言葉に置き換えるのもあながち間違いではない。

物書きを始めてからおよそ8年が経過した段階では、言うなれば「人のために70%程度の物語を作って、ギフトとして送る」ようになった。良くも悪くも。

とはいえ、長編を書き続けてきたことに裏打ちされた文章力やプロット作り、ストーリーの展開といった技術的な部分に関しては、おそらく自分が思っている以上の水準に到達したという自覚はある。

それが一昨年くらいに得た感触で、突き詰めるとそれは「いつのタイミングで書いても一定以上のクオリティの物語を作ることができる自信がついた」ということでもあった。

さしおり、物書きについては一周した感があって、その先はより物書きの真髄について迫るか、別の世界を楽しむためにまっさらな状態になるかの二択が自分の目の前に並べられた。

結果、自分は別の世界を選択して、その時点でようやく物書きから正式に離れることになり絵を描いたり音楽のことを調べたりするようになった。


10年という月日は確かに長く、確かに生活とともにあって、それなりに自分が思い描く境地にもたどり着いた。それにしても10年かかった。

現在取り組んでいる絵にしても、やはりそれくらい、それ以上の時間や熱量が必要なことは言うまでもないのだろうなと。

そんなさなかで、たとえば今年の一月には、ほんとうに一年ぶりくらいにちゃんとした物語を作った。

お題を与えられてそれを汲んだ作品を作るという企画で、自分は二作品したためた。

一方は1万字程度の掌編、もう一方は4万字を超える中編。今回の企画は自分もなかなか食指が進まなくて、どういう気持ちで書こうかと思案していたが、そのときは誰かのためというよりは、数年後にもさまざまな創作に打ち込んでいるはずの自分がそれを読み返したときに少しでも力を分け与えられたらいいなと思って書く、いわば自分のための物語を作ることにした。

あとで読み返したときに、当時の自分が何に向き合っていて、何を考えながらその物語に取り組んだのか、その証拠を残したい気持ちで作品を書いたと言ってもいい。

少し前のTwitterのツイートを見返ると、その気持ちを次のように書いたりしていた。


ツイート1 * こう、最近は自分の作るものは自分の生活に寄り添うものであってほしいと考えるようになって。小説を書くことに関しては、自分が生きる中でなかなか解決しない問題を題材にしちゃうことが多い。物語のなかに投げ入れてみて、彼らが何を導き出すのかを試行するために言葉を紡いでいる気がする。

ツイート2 * 今回のお題小説もその気配を孕んでいて、一応彼らは彼らなりの答えを出すわけで、その答えは普段の自分では思いつかないもので、ああ、そっか、そうだよなぁ、それでいいんだよね、って感じで。うまく収まるというか、自分自身そこにたどり着いてスッキリするというか。

ツイート3 * それもある種のカタルシスだな、と思いつつ。逆に答えに行き着かないと物語はてんで進まないし、終わりも見えないという苦しみはあるわけだけど。でもまあ、簡単に書けたらそれはそれで歯応えがないというか。物語を書く醍醐味のひとつは、自分の内側でぐにぐにとなっているものをぎゅっと絞り出すみた

ツイート4 * みたいなところがあると思ってるんだけど。昔は感情をぶちまけるための物語だったんだけど、この数年書いているものはお悩み相談室みたいな感じになってて、だんだん書きにくくなっているのが本音。どちらもさ、現実じゃうまく表せないから、こうやって物語にしちゃうんだけどさ。

ツイート5 * 物語を自己表現の手法としてではなく、自浄のために書くようになって、かつて誰かがそのために書いていたけれど、今はその気持ちがよくわかるなぁって。でもこの自浄作用も、結局完成しないことには味わうことができないわけで、長くなればなるほどもどかしさもひとしお。


などと。などなどと。そんな感じで納得したりする。

兎にも角にも何が言いたいかというと、10年という歳月もあれば、物書き一つとっても目まぐるしい変化があって、そのときどきの取り巻く環境や世間の流れに合わせて順応した姿が今だということで。

高校のときは小説家になりたいと思って物書きをしていたのだけど、その目標は現在も何一つ達成されていない。しかし現在の状況にはわりかし満足もしているし、なるべくしてなっているのだとも思うし、これはこれでアリだよね、っていう。

だからまあ、そうね。

次の10年後は立派な絵描きさんになるという目標をちゃんと立てておこう。いつかこの雑文を見たとき自分がどうなっているのか青写真を描きながら。


そんなわけでまとまりのないお話はここまで。

せっかくなので、一月のお題小説で書いた物語のリンクを添付しておこう。


お題A「はちみつレモン、ときどき焼肉」

https://www.dropbox.com/s/zgutfrxo8f6dcjr/%E3%81%AF%E3%81%A1%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%80%81%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%A9%E3%81%8D%E7%84%BC%E8%82%89.txt?dl=0

 

お題B「ふりかえる無情の砂漠に春吠える/クジラトリップストーリー」

https://www.dropbox.com/s/5fjtqdm56v5lgzz/%E3%81%B5%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E7%84%A1%E6%83%85%E3%81%AE%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AB%E6%98%A5%E5%90%A0%E3%81%88%E3%82%8B%EF%BC%8F%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC.txt?dl=0