春風が花びらを巻き上げる桜並木は新たな始まりを予感させてくれる。
三月、四月は出会いと別れの渦巻く季節ですね。
自分自身に異動の話はなかったけれど近しい人が遠く離れてしまうことがあった。その人を見送り、そして新しい人を受け入れる。まるで定点観測者のように自分はめくるめく人々の流れを横目に見ながら、煩雑とした日々を過ごしていたような気がする。
思い返すのはきまって後悔に近い何かで。もっと積極的に関われば良かったとか、深いことを聞けば良かったとか、受け入れられるような振る舞いをすれば良かったとか、そういうちょっとした心がけの積み重ねが足りなかったことを悔いている。
過ぎし日の面影は別の責務という形で自分に覆いかぶさってくる。残された自分に「とりあえず君しかいないから」というなかば強制的な形式を以って、新参者の面倒係・教育係を担当することになっちゃった。心中には煩わしさもあるけども、どちらかと言えば過去の教訓を生かしてより良くしたいという思いもある。じゃないと奴らの二の舞だし、自分は自分のやり方に対してなるべく多くの思慮を払いながら丁寧に教育していく立場になりたいと思う。
お節介だとか過保護だとか裏で言う連中もいるかもしれんけど、それはそれであってもいいというのが自分の中にある。
世話焼きな性分、大いに結構。世の中のハードルなんざ、ガンガン下げて行くべきだ。もっと気楽に生きれる社会にしてくれ。風潮に対して安易にアンチテーゼを叩きつけられる環境にしてくれ。「成長」の二文字を組織の理念に背負わせるな。
もう少し、ぬるい生き方を許す世界にしてください。自分はそう願ってます。
当然、現状ではそんなことを言い出すと枚挙にいとまがない以前に世迷い事だのって一蹴されるのが関のやマウントレーニアって感じで、あんまりコーヒー好きじゃないから私よくわからないですけども、梅昆布茶の方がよほどお得意様みたいな、酒の席ではもう一滴だってご勘弁ぐらいの頑なな意思が丁度いいくらいの、デスク周りが汚くても誰も干渉してこない程度の、あー、猫、猫いないかなぁ、ふらりと室内に入ってこないかなぁ。
全体的にのんびりさせて欲しいものではあります。刺激はみずから求めに行きますゆえ。
新しい年度は否応なく始まりました。
昨年度は未曾有の感染症の猛威にてんやわんや振り回され、正味お気持ち消化不良といった側面も過分にございますけど、今年度はどちらかと言えば元どおりに近いスタートが切られたのではないかと思います。かと言って完全に元どおりじゃなくて、多少は柔軟性も取り入れた方針もちらほら出てきた様子で、自分にとっては、もう少し広めると、若い世代にとっては良い傾向にあるのではないかと思っとります。
それがちゃんと継続すればいいなって。
そうすれば、みんなもっと自己実現に向けて行動するのかもしれない。少なくとも心の時間に余裕を持ちながら、世の中舐めてるぐらいの気概で生きていきたいものです。
そういった具合で、ここはひとつ。