それは「猫(かわいい)」というコンテンツ。

動物のほうが人間より優れている、と思うことはペットを飼っている人ならそれなりに出くわす機会もあるはずだ。

実家で飼っている猫は廊下から居間に通じるドアをノブに前足をひっかけ、体重をかけることで開けることができることを知っている。それから自分で温度調節ができないから、季節に応じて一番過ごしやすい場所を自分で見つけることができる。家主が起きないときは固定電話の受話器を前足で飛ばして電話から鳴る音で無理矢理起こそうとする。

さて、お盆とあって、3か月ぶりに実家に戻る。

猫は冷蔵庫の横に置いてある爪とぎ用の枕木に身体を丸めており、こちらの顔を見上げても一瞥するだけで、また目をつむり台所で夕餉の支度する母親の雑音にピクピクと耳を動かしている。食器棚の隣の引き戸の中にペット用の餌がしまわれている。一度開けるや、早く飯を出せのデモ行進が始まる。ずっと足の周りをつきまとい、主人の顔を見上げてビービー鳴き続ける。毎日その繰り返し。

数えで10歳近くなる我が家の猫は自分が高校3年生のときにやってきた。生後数ヶ月ごろに引き取った。

最初のころは片手でおなかを持ち上げることができていたけれど、今はその面影がちらつかない程度に贅肉がついてしまった。ご飯についてはあげたらあげただけ食べてしまうような少しお馬鹿な猫だ。だから太る。太ってジャンプがままならなくなる。腹の肉が邪魔をして高いところに後ろ脚が上がらない。

家の中で飼っているから窓の外で動く獲物にクラッキングすることしかできない。そういう意味では猫にとっての自由な生活とは言い難く、時折父親は可哀想に感じると思わないでもないようだ。とは言え、よもや外で生活をさせて道路に飛び出したりすればと考えると、どうしても制限付きの生活はやむを得ない。猫はと言えば、たまに家人が帰って玄関を開けたタイミングで外に飛び出すことがあり、しばらく庭やらなんやらを探索する行動が観察される。たいてい、遠くに行くことはできず、小心猫ゆえ捕まえてみると心臓がバクバクしていることがすぐわかる。外の世界に対する憧憬はあれど、等身大の世界はやはりおっかなびっくり、すぐに車の下に逃げ込んでしまうのが常だった。

猫は祖母の名前を借りてハルと名付けた。名前という符号は実際不思議なもので、言っているうちに猫自身もそういう顔をするようになる。猫の顔には「私はハルです」と書いてある。呼べば顔は振り向かずとも、耳を動かして聞こえているふりはよくする。

ハルは往々にして食い意地が張っている。仏壇のお供え物や花でさえ食べようとする。それで父親に怒鳴られ、脱兎のごとく逃げてしまう。自分でも制御できないほどのスピードで家を駆けまわる。床をカシャカシャ音を立てながら行ったり来たり、興奮が冷めるまでひとしきり暴れ回るとあとは一人でにどっかへ行ってしまい、また餌をしまった引き戸を開けるとどこからともなく駆け寄ってくる。

まだ幼い頃は自分が遊び相手になったりしたけれど、大学へ進学するなどで実家を離れてしまうと遊び相手はいなくなってしまった。それからは食べて寝て起きての繰り返し。寝床は決まっていない。昔は自分が使っていたベッドだったけれど、今は畳の部屋で寝る母親の布団の中。日中は父親の寝るベッドの真ん中。椅子の上。食器棚の上。網戸のそば。夏は石造りの土間。どこでも寝るから寝る子でネコとは言うが、確かに膝の上でも寝たりするから名は体を表すものだ。

マッサージは嫌いではないらしい。耳と耳の間を指でこするようにマッサージすると目をつむって大人しくしている。最近は自分が帰ってくる頻度が減ってしまったせいか、あまり馴染み良くない。すぐに牙をむいてシャーと威嚇してくる。複雑な心境だ。腹を撫でられることはめっぽう嫌がり、すぐに後ろ脚で足蹴にする。

そんな感じでハルは大人になってしまい、昔ほど愛くるしい存在ではなくなった。良くも悪くも、日常生活に溶け込んでしまった空気のようなものになり、そこにいるという事実がもっとも大切になってしまった。

自分自身、帰れるタイミングがまちまちだからいつまたハルに会えるとも限らない。近頃は会うたびに素っ気なくなり、正直悲しみもある。警戒心があることは大いに結構、しかしかりそめにもおチビのころから大事に育ててきた自負がある。その家主みたいな存在にして帰ってくるなり威嚇はないだろう。

こうやって自分の存在がだんだんと影を落としていくようすが家に帰るたびに感じてしまい、心苦しいものだ。だがそれもまた自然の摂理。

猫寿命からいけば、もう折り返し地点をすぎ、あとはうちの両親とゆるゆると荏苒とした日々を過ごしていくのだろう。これまで活発だった行動も少しずつ落ち着きを経て、行動圏も狭まっていくのかもしれない。自分が帰ってきても見向きもしないで、逆に撫でれば何も抵抗しなくなるかもしれない。老いとはそういうものだ。

いつか来る今わの際のときにはちゃんと立ち会ってお別れもしないといけないな。そしたらうちはもう、ペットは飼わないだろうな、両親。年齢的な意味でも、家族的な意味でも。おそらくはいなくなってからその存在の大きさに救われる日々がやってくるのだろう。ともあれ、今はまだ元気なのでたいした心配はしていないのだけど。健やかに生きてくれればそれが一番なのでございます。