"どれだけ"打つかじゃない。"いつ"打つかだ。

やっぱ野球じゃない?って話。野球と言うより野球を取り巻く社会というか。それも含めての話。

3月、熱く盛り上がったWBCは日本悲願の3回目の優勝で幕を閉じた。

選手にドラマがあった。国ごとにドラマがあった。野球にドラマがあった。


しばらく頂から遠ざかっていた侍ジャパンには国内はもとよりメジャーの超一流選手だけでなく、出生の垣根を超えてフォージャパンの精神でしのぎを削った。曰く代表監督となった栗山監督は数年前のラグビーワールドカップにインスピレーションを受けたのだとか。実際、国民だってその選手がどういうバックボーンがあろうと応援の熱量なんてのはその実何も変わらなくて、とにかく純粋にスポーツをしている人たちを応援することが好きなだけなんだと思った。


ラグビーもそう、サッカーもそう、野球もそう、もちろんそれ以外のスポーツも。

国際的な大会で変化するのはただただ国民の意識が一つの方向に向いているというだけの違い。それが試合を追うごとに、日本が勝利するたびに一つの希望という光に気持ちが集約することで社会全体にムードを与える。そして応援という追い風を生み出す。


ゲームの中に流れがあって一つのプレーが流れを呼び込むように、社会に対して投じられた一石が小さな波紋を生み出し、当てられていく誰かがさらに大きなムーブメントを作り上げていく。

今回のWBCでその一石とは具体的に何だったのだろうな。実は一つではないのかも。最初は離れていたところ同士の一石たちだったのかも。

湖の端と端で互いは何もわからない。けれどどこかしらからやってくる波紋が分かる。何か流れを感じる。その流れを感じた誰かが行動を起こす。行動は自然に起こるし、やろうとしてやったわけではない。あの選手のワンプレーやあの選手なりの激励やあの選手だからこその魅せ方。

今回の大会ではそういった、誰かが誰かに流れを繋いでいくための気遣いや仕草が随所に見ることができた。思い当たる節がたくさんある。それを語ることは野暮だけど。


優勝後、テレビ番組での栗山監督の単独インタビューの映像を見た。30分ずっとWBCについて語っていた。試合のことではない。選手たちのことだった。1野球監督の視点で見るにはあまりに選手のことを考えすぎていた。そういう内容はいやしくもチームが優勝していなかったら聞くことは叶わなかったはず。日本のメディアらしい部分だが、今回は優勝だった。国民みんなが知りたいことをつぶさに語ってくれた。その内容を踏まえてこれまでの試合をハイライトを振り返っていくとある種のカタルシスを覚える。

2009年の優勝や、そのときのメンバーや、今回の試合の解説陣や、純粋に試合を楽しむ選手の姿や、それを応援する国民の眼差しや、自分の中に湧き上がる高揚感。

決して長い期間の物語ではない。選手その他関係者にとっては美しいばかりの演出ではなかっただろうが、ほとんどの国民にとっては侍ジャパン優勝までの軌跡を見終わって、今はエンドロールの余韻に浸っている。終わってしまえばあっという間だった、と思う面白い映画みたいに。できすぎた物語みたいに。神様が仕組んでくれたと誰もが錯覚するように。


国民は夢を見せて貰ったのだと思っている。いうなればギフトだ。新しい年度を迎える人たち、何かに打ち込んでいる人たち、へこたれて弱音を吐きそうになっている人たち、色んな境遇でともに戦っている人たち。そういう国民たちへのギフトが今回のWBCの優勝だと感じた。

ギフトにたらふく詰まったエネルギーは放っておけば記憶に埋没してしまうだけの泡沫になる。だけど、気持ち一つでどんなものにも向けられる偉大なエネルギーを秘めている。いわば国民のためのログインボーナスみたいなもの。溜めずに使わないと滅茶苦茶勿体ないと思った。


自分はもう使い始めている。選手たちのメンタリティーや姿勢に対して学ぶところが多くあった。とくに今回は20代の若い世代が中心で、その影響も大きかった。喜びが伝わってきたように、苦しみもヒシヒシと伝わってきた。それが今回純粋に良かったポイントの一つとして挙げたい。

今更あのシーンがどうでとかは言わない。文章よりYouTubeで見たほうが断然いいし、だけど言葉で書いて今後のために残しておくとすれば、いつか自分がこの文章を振り返ったときにWBCの優勝で沢山のギフトをいただき、それを原動力に毎日自分は頑張っているぞ、ということを思い出してくれ。そういうことにしておいてくれ。


新しい年度が始まりました。

年度明けから多忙な日々、その分自分のしたいことを明確に決めて取り組むことができている。様々な時代の変化、技術の革新が生活に追い風をもたらしている。日々のあらゆる出来事を推進力に変えよう。このモチベが続く限りは。